『透明ドラキュラ』 監督・脚本・音楽 有原成宏 主演 有原成宏 佐倉魔美
お話は魔美が映画研究会の自主制作の映画に主演する事になるが、超能力がバレそうになる、ちょっとしたサスペンス系だ。 ところが、この話は一筋縄では終わらない。 それは、映画研究会の部長であり、その映画「透明ドラキュラ」の企画から脚本監督主演を一手にになっている鬼才「有原成宏」の存在が、あまりにもスゴイから。 とにかく、物語の流れとは裏腹に、まるで無関係な強みなのか、F氏の何かが例のごとく点火されてしまい、この話の彼は異様なテンションで突っ走る。 彼もスネ吉や間津井氏たちと並ばれてしかるべき、F氏の分身の一人だ! と言うわけで、特別企画として、この超傑作前衛映画「透明ドラキュラ」の全貌を分析してみたいと思う。
↑ここで彼はルキノ・ヴィスコンティの遺作「イノセント」をとりあげ、「その演出の背筋の寒くなるような冷徹さ……」「ルドウィッヒほどの狂気の傑作ではないがすべてが、まさに……」 と言う風に、完璧にデキあがっている。 要するに頭でっかちの「ヨーロッパ映画大好き。ハリウッド映画は趣味に合わない(みんなが見るから天の邪鬼な自分は、みんなとは違うモノを観て、特別視されたいんだよ、いわゆる)。映画館なんてミニシアターしか行かないよ」タイプである。 当然監督脚本はおろか、音楽までやってしまうような人間なので、いきなり部員達に突き上げを食らうが、まるで動じず。 ↑メダカ!! 格好良すぎます。 部員達が言うには女子部員ばかりを増やして、企画の段階から皆の案は完全無視の横暴ブリのようだ。 そして「さっさと、でていけ!」とまで言って、あっさりと孤立。 それでも主演女優に魔美を迎えて、魔美目当てのカメラマン黒沢が戻ってきてくれて喜ぶ。 ナルシストでもある彼の主演は絶対であるからして、カメラを回してマイ視線を捉えて貰うは必須と言うわけだ。 で、その「透明ドラキュラ」は同時期の「透明フランケン」とはまるで違うテーマだそうで、曰く ↑「透明フランケン」は三流ゲテ物だそうで、こちらはこれまたかなりアツアツにデキあがってます。凄いテーマを内包してますな。ドラキュラは「改革者の象徴」。透明化は「束縛からの解放」。だそうです。圧巻のテーマです。絶対に観たくない! で、いよいよ撮影開始!(でもスタッフは全員女性部員) ↑C-1 坂道をくだる少女 ド素人にはこう見える だが、巨匠に言わせればコレ
↑カリカチュアライズですよ。カリカチュアライズ。こんなことも分からないんですから、とうしろうは困りますね。全員「?」 そして続いて公園のロケ ↑このシーンはシナリオの表記がないので分からないんですが、どうして少女はいきなりベンチで麺をすすっているのか(しかもどんぶりで!)? どうして少女の前にいきなり棺桶がおかれているのか? 考えると夜も眠れない様なシチュエーションですが。恐らく常人には到底理解できないような意味づけとテーマが内包されていると思われます。 さらに分からないのがコレ ↑その棺桶から出てきたドラキュラ(透明じゃないんですね。まだ)は、少女の咄嗟の機転で箸十字架に苦しめられる。真っ昼間なんですが、恐らく透明化できるので太陽光線を物ともしないんではないでしょうか……そんなの吸血鬼にする意味ないと思……いやいや、巨匠有原監督ですからね。ここらも当然計算され尽くした深い意味合いがあると。 そして、咄嗟と形容したとは言え、魔美の完璧な白け面に、またまたスタッフ達とうしろうに言わせると。 しかし、流石巨匠はコレ
↑ほら。意図って言ってるし。「能面のようなおさえた演技」ってどういう意味なの?ここらあたりになると、相棒黒沢カメラマンも立ちつくし。 続いてのシーンは、郵便ポストの横で正座した少女。その傍らにはお線香。頭には小さな十字架。その周りを透明ドラキュラのマントが飛ぶ。 理解不能。 魔美曰く 「それにしても……むずかしいシナリオだわ!」 これだから素人は…… で、他の女子部員の失敗には容赦のない叱責が繰り広げられるが、その理由が 「フィルムがもったいない」 流石です。写った物が全ての写実至上主義! プロデューサーとしての視点もキチンと忘れない辺りは、自分の決め顔ショットのインサートは忘れないトム・クルーズに匹敵する敏腕。 しかし、遂に女子部員達も全員ついてこれなくて辞めてしまう。 天才の仕事には常にこういった無理解によるトラブルがつきまとう。 天皇黒澤明監督の「トラ・トラ・トラ」事件しかり。 しかし、不屈の精神で撮影続行を敢行する有原組。 シナリオを手直ししての撮影だが…… ↑わ…わからん……。どういう改稿がなされたのかは残念ながら資料不足で不明だが、とにかくドラキュラはホームレスを従えて鬼退治に向かう筋立てになったのかもしれない。勿論真っ昼間だが……。 とにかく天才の創作を理解するには困難を要する物だが……恐らく筋立てだの、ドラマツルギーだのとは違う次元の創作活動が彼の中では営まれているのだろう。 そして、「ショッキングなクライマックス」であるラスト・シークエンスの撮影が始まる。 有原監督自身のロケーション・ハンティングにより、荒涼としたムード漂う野原で、たった三人によるラスト・シューティングが始まろうとするが…… ↑赤一色の世界の中で逃げる女は吸血鬼となりドラキュラと共に踊り続けるシーンで、主演女優がヌードになることを拒否。シナリオには書きわすれていたらしいが…… エロティシズムと天才の創作には切っても切れない関係があると思う。北斎しかりだ。 よって、巨匠にしてみればコレ ↑「ひたすら裸体の美を追求しつづけてきた」そうです。何故だとおもう!? とありますが、残念ながらこの問への答えは有原監督の口からは聞けません。つまり、作品によって答えが出されるわけです。これこそ芸術! 何故服を脱がねばならぬのか? 「それまでの虚飾をすて、真の姿をあらわすという重要なテーマを表現」しているから。 ここまで屁理屈……いや、テーマを真摯に説明しているのに、主演女優は泣き寝入り。 巨匠有原は切れる。芸術家の最終行動は常にこれ。 ↑癇癪。 とまあ、いっかいの主演女優の恥じらいが原因で、前衛芸術傑作映画「透明ドラキュラ」の制作は頓挫する訳ですが、この映画が完成していたとしたら…… ヴェネチア映画祭金の獅子賞間違いなしだったでしょうね。
と言うわけで、あんまり面白かったので、衝動的に取り上げてみました。 この話の凄いところは、話の筋とはこの映画自体まるっきり関係ないし、この有原監督の存在も完璧にどうでも良いと言うところです。 実際には超能力を見られてしまった撮影の黒沢とのサスペンスや、念写と言う超能力がお話の本筋なのです。 ホントF氏はこういう、話に関係ないのなら無茶苦茶やってしまえ精神が素晴らしいですよ。こういう時の気が狂ったとしか思えないぐらい生き生きとした暴走ブリを楽しめる格好の話の一つと言えるでしょう。 いやあ、バチンバチン弾けてますよホント。 ではでは。 |